秀才について

わたしは秀才ではない。

22年間生きてきて、切に感じることである。

わたしは頭がよかった。友人は、私と同等かそれ以下の人しかいなかった。小学校の頃、努力さえすれば東大くらい余裕で受かると信じていた。

ひまわり組で誰よりも早く時計が読めて、飴玉をご褒美にもらったあの日から、「秀才」という響きの中で泳いでいた。

羊水のように、あたたかかった。

 

しかし、胎児は10ヶ月経てば下界に落とされる。否が応でも、身体を包んでくれるあたたかさから追い出され、自分の脚で歩かなければならなくなる。

わたしの中の秀才が死んだのは、その感覚に近い。いや、死という表現はふさわしくない。きんきんに冷えた冬の空につま先からちりちりと消えていった雪女のように、虚構の存在へと姿を変えていった、と表した方がしっくりくる。

 

わたしは秀才ではない。

就活を初めて3ヶ月、わたしはついに自覚したのである。

難関の編入試験に合格した自分は、まぎれもない秀才だと信じていた。今までなんだってそれなりに上手くいった。褒められて、ちやほやされて息をしていた。

そんな、人より上にいたはずのわたしを、企業という名の悪魔は散々なぶり尽くしたあと、ギロチンを落としてとどめをさしてくる。

生まれて初めて、志望が叶わなかった。実はわたしは、いらない子だった。

誰からも求められ、挫折を知らない秀才なんかでは決してなかった。

運良くテストの回答が当たり、運良く今まで志望校に合格出来ていたフツーのニンゲンだった。

 

就活で、人間は大きく成長するという。それは正しい。

でも正確に言えば、成長せざるを得ないのだ。

それほどまでに、ひたひたと足元を濡らしてきている社会の荒波は、遠慮もなく自尊心を揺さぶり続ける。

 

もうすぐ、6月になる。

就活を終わらせる友人も増え、世間は平成最後の夏に向けて動き出す。

フツーのニンゲンのわたしは、東京中の太陽光を集めるような真っ黒な服を着て、ビジネス街のアスファルトを鳴らすだろう。

実を言うと、わたしはそんな選択をした自分が、かなり好きだ。

決して秀才では、ないけれど。